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by wa-connection

とあるフィンランドの童話について翻訳家の批評

うちで二紙新聞を取っているんですが、この地方のサタクンナン・カンサ紙に定期的に掲載される言語関連のシリーズ記事「言葉のこと」があって、文法的なトピックだの結構面白い内容で勉強になります。
今回は翻訳についての記事があったのでトピックとしては前回から続きますが、載せてみます。
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「トーベ・ヤンソンの文章」

フィンランド語版での文:
"Eräänä harmaana aamuna ensilumi laskeutui Muumilaaksoon. Se hipisi maahan hiljaa ja tiehensä, ja muutamassa tunnissa kaikki oli valkoisena." (Taikurin hattu 1948)『楽しいムーミン一家』の出だしである。
これはスウェーデン語の原文からフィンランド語に翻訳されたものだ。
(意訳:ある はいいろの朝のことです。はつゆきがムーミン谷をおおいました。雪はしずかにじめんやみちにかろくふれて、すうじかんごにはすべてがまっ白になっていました。)

すばらしい作家は文章も同様にすばらしい、と言われている。ではトーベ・ヤンソンの文章はどうだろう。たとえば前述の『楽しいムーミン一家』はどのように翻訳されているのだろうか。

作家ユハ・セッパラは、良い文章とは「ゆったりとしていながら、他の書き方を許さない。自由でいながら、完成している。形成的でありながら複雑ではない。曲がりくねっておらず、まっすぐに多方向に向かう。 良い文章はそれ自体が良い文章だと触れて回る事はしない。良い文章は膨張せず、押し付けがましくもない」

と言っている。ムーミン童話は文章にあふれている。これらの文章は着膨れした感じはいっさいせず、押し付けがましくもない。余裕が有り、これ以外の書き方はあり得ないと思わせ、自由でいて完成している。形成的ではあるがややこしくはない。

トーベ・ヤンソンの言葉で特徴的なのは主文の多用だろう。表現方法は詩的で読者に同化する余地を与えてくれる。ヤンソンは原因—結果で導かれる副文を避けている(英語でいうところの、that, because, ifで始まるもの)。

『ムーミン谷の夏祭り』を見てみよう。フィンランド語では”Pannukaku kuivuu ja kukat kuihtuvat ja kello käy, eikä ketään tule.” (Pannkakan torkar och blommorna vissnar och klockan går och ingen kommer.)手元に邦訳がないのでほんとうにざっくりと訳しますが(童話の訳はどの方の翻訳もさすがとうなる練られたすばらしいものなので下を読むと邦訳で該当箇所が見つけられないかもしれません、うう、、、)

「パンケーキはかんそうし、花もしおれ、時計だけがすすむ。そしてだれもきやしない。」矢継ぎ早に続く主文は計算されフィリフヨンカの悲しいため息と合致している。そこでは夏至祭の夜に人を待ち続けることの終わりのないやるせなさが詩のように描かれている。

ムーミン作品が発表された当時、当時の児童文学の要件を満たしていないと批判された。教育的な内容でなかったからだ。

ムーミンの世界は当時馴染んでいたもじゃもじゃペーターの世界から程遠かったのだ。ヤンソンは読者に(子どもにも、だ)自由を与えた。読者を信頼したのである。

ムーミンの物語は43カ国語に翻訳されている。初めて英訳されたのは『たのしいムーミン一家(原題からの直訳:魔法使いの帽子)』で”Finn Family Moomintroll” とされた。

翻訳者は物語を当時慣れ親しまれた児童文学の方向へと誘導している。この翻訳者は言葉を切り捨て、読者を思惑通りの方向へ誘い込み、並列された主文を副文へと変換してしまっている。翻訳からは、児童文学を見下す態度が見え隠れする。

フィンランド語翻訳の例ではオリジナルの雰囲気を極力尊重している。
”Nipsu puri pelkästä kiiihtymyksestä hemulia peukaloon. –Pidä varasi, hemuli sanoi vihaisena. Sinä purit minua peukaloon! –Voi anteeksi, sanoi Nipsu. Minä luulin, että se on omani.”
(意訳:スニフはこうふんしてヘムレンのおやゆびにかみつきました。 気をつけろ!ヘムレンはおこっていいました。こっちの親指にかみついたんだぞ! ああごめんよ。スニフはあやまりました。ぼくのだとおもったんだ。)

英訳では以下のようになっている。

”(…)in his excitement, Sniff bit the Hemulen´s thumb thinking it was his own.” これをフィンランド語にすると以下のようになる。
”Kiihtymyksissään Nipsu puri Hemulia peukaloon luullen sitä omakseen.” 
マルヤ・ヘイッキネン 
(筆者は英語とフランス語修士、翻訳家)



以上です。いやぁ、プロのチェックってほんっとうに恐ろしいですね。さいなら、さいなら、、、(違うだろう)

特に英語の場合はそういう目にさらされる機会が多そうです。
ただここまで読み込むと文同士の関係やぎりぎりまでそぎおとされて美しい原文がますますいとおしく思えます。上の記事を読んで、本文の美しさを楽しみたいのであれば、英訳ではなく邦訳がやはりいいのだろうなと改めて感じました。フィンランド語訳としかくらべていないのですが、どれもよく練られて一度訳者の方が消化したあとご自分の言葉で生み出したものであることがわかります。直訳のような固いものではなく、流れがあり、全体の雰囲気がしっかりと伝わってくるのです。私の意訳は邦訳が手元に無いため適当であまりにしょぼいものですのであくまで参考程度になさって下さい。

 原文が愛おしいとはいっても、私は大人向けに書かれたヤンソン小説の方が実は好きなのですが。『彫刻家の娘』の中の短編もいくつかとても好きなものがあります。「パーティー」など。

翻訳は意味が伝わればいい、こんなものじゃないか、と思う人もいれば語順原文に忠実に、と思われる方もいらっしゃるかと思います。

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by wa-connection | 2014-11-20 03:15 | books