フィンランドで開業している私達のビジネス、ライフ・スタイル ブログです。 This is about our business and life in Pori, Finland.


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久しぶりに縁あってYAの作品を読みました。
YAというのは、ヤングアダルト、主に10代思春期向けの文学を指します。

作者はNadja Sumanen(ナドヤ・スマネン、女性)の“Rambo”(ランボー)。
これ、主人公の男子の名前。シルベスタ・スタローンの映画を見て息子にこの名を・・・
いわゆるDQNというか、何て名前を子どもにつけるんだ、と思いましたよ、可哀想に。
もし私が本人だったら名前だけでもグレそう。(死語)

最近のフィンランド児童文学もそうですけど、普通の家庭設定と言うのがどんどん減ってる気がします。
世相を反映しているのか、父親、母親がいて子供がいて、、と言うのではなくユニークというか。
子どもが共感しやすいという事を考えているのもあるかもしれません。
作中にも引用されている絵本シリーズ「リスト・ラッパーヤ」と言う男の子も母親父親がどこか遠いところで働いていて叔母さんと暮らしていますしね。他の作品でも両親が離婚、シングルファーザー、シングルマザー家庭、再々婚、ステップブラザー、シスターと言った設定がじゃんじゃん出てきます。あとレズビアンカップル、ゲイカップルの家に養子、と言うのもあった気がする。ま、日本でも『キッチン』もカテゴリ的には同じですね。どっちがいい、悪いの話じゃありませんので悪しからず。

この作品では、中学2年のランボーは、母親と二人暮らし。
母は鬱でずっと寝込んでばかりで定職についていない。
母の恋人は一年単位で変わる。
そして冷蔵庫に食べ物が入っていた試しがないので、夏休みになると毎日温かいご飯が食べられるのかがすごく心配。
父親は認知もせずに彼が生まれる前に失踪。
ランボーはADHDと診断され、小さいころから特殊支援学級で過ごしてきたが中学の今は普通学級へ適応観察時期。
そしてもちろんクラスメートは彼を遠巻きにしていて仲間に入るなんて事は考えられない。
クラスメートたちはiPhoneやら高級なスマホを皆が持っていてポケットに入れたまま洗濯機でジーンズを洗ってしまって電話が水没で壊れても、親がすぐ代わりを買ってくれる。ランボーの携帯はもう何年も前の今では老人しか使っていないようなタイプなのでいつも忘れたか壊れているという振りをしていた。
夏休みになる前の最終日、成績は10段階の大体8をもらう事ができ、教師がハグしてくるのも拒否せず受け入れるようになった。低学年の頃は芋虫のまねをして床を這って成績表を貰いに行ったり、他人がADHDの自分に期待している姿を演じたりもした。

夏休み、母の現在の恋人Rotta(ドブネズミという意味)とあだ名をつけているリストのサマーコテージに連れて行ってもらえることになり、
何年かぶりの夏の予定にウキウキする。
友人に借りた車で東フィンランドに出発する一行。
道中食べものが何もないので久しぶりにコーラ一本とバゲットサンドイッチを買ってもらい幸福感いっぱいのランボー。

到着するとどうもリストの両親は戸惑っている様子、そしてリストの妹夫婦一家がやってきてせっかくの温かく迎えてくれている雰囲気がリンネアという娘のせいで台無しに・・・

というストーリー。もう最初の20ページぐらいは自分も落ち込みそうになりながら読みましたが、そこは10代向けに分かりやすくのめりこめるよう書いてあるのであとは一気に最後まで読めました。

ハッピーエンドで良かった、、この10、20年ぐらいは様々な発達障がいの診断が進み過ぎているような気もするのですが(もう大部分の人が何らかの発達障がいや読解障害や行動障害を抱えてるんじゃないかと。今でも度合いの軽いものを含めれば4人に1人と言われていたりしますし)、その当人の気持ちを書いたものとして本人は周りが奇異な目で見ることにこう感じるとかあきらめの気持ちだとか、心にぐさぐさ刺さりました。

ダイバーシティとか多様性だとか言って、結局受け入れない「普通の人たち」の心の狭さっていうんでしょうかね。
自分と同じような人間でなければ受け入れないというのは姿、形、規模の差こそあれ実に今もいろんなところで見かけます。
人種や文化が違うことではじき出されることは私も経験しますし、やっぱり分かり合いにくいんだなぁということもあります。
去年のシリア・イラク難民の大量流入でのフィンランド世論の急速な硬化も目を見張るものがありました。
年が明けて、シリア難民認定待ちの人たちに関するニュースが激減し(というのも、内閣の次年度以降の社会合意に関して組合連合とけんけんがくがくやっていてそっちにメディアの露出大部分が割かれていたので)少し落ち着いたと思いますが。

思春期向けなので14歳ぐらいの男子、女子のほんわかときめきや、やるせないエネルギーのぶつかり合いといった甘酸っぱい(男子側から描いたものですが)描写も30年前こんな時代があったなー、、と思わず遠く彼方を見やってしまったり。

これは女性作家の書いたもので、男子の心理描写としては結構鋭く書いていると思うので大人なんて、世間なんてと思っている男子にもとっつきやすい本だろうと思います。

長男、もうすぐ14歳なんですけど、自分から本を借りてくるタイプじゃないので勧めてみようかな、と。
夫はそんな気分が落ち込むようなソーシャルポルノ(他人がいかに苦難な状況にあるかを見て自分はまだ安心だと思い込もうとする事を言いたい模様)読むなよと言いますが。ま、本の選び方も考えようですよね。

これは二週間前ぐらいに二晩で読みましたが、その前に読み終えたのが2010年の話題作短編、後に映画化もされたものなのでそれについても近いうちに。
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by wa-connection | 2016-04-19 17:34 | books
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(※ケプレルのヨーナ・リンナ5作目(未邦訳)『ストーカー』表紙を使った書店マーケティング2015年春アカテーミネン書店から)
※ネタバレはありませんが、裏表紙に書いてある程度のあらすじは書きます。

ここ10年ほどはスウェーデンを中心とする北欧ミステリが一定の人気を確立し、大手から小さな出版社までコンスタントに邦訳もされる分野となりました。
英語ではScandi Crime(北欧犯罪小説)とかNordic Noirと言われることも多いようですね。

面白いのは、フィンランドの書店でもカテゴリーとしてミステリは純文学に入っていること。
ん?括りが大きすぎやしませんか?
とも思うのですが、
大きく分けると、
新聞・雑誌、
児童文学、
ノン・フィクション、
文学(ここにフィクションとしてミステリも入る)

こんな感じでしょうか。
もちろんノンフィクションでも、趣味関連、アート、建築、自然・・と分かれますし、文学コーナーでは純文学、詩、そしてミステリ(フィンランド語ではdekkariとかjännäri)といった風に枝分かれしていきます。

児童文学でも、絵本、字が読めるようになった低学年向け、高学年~10代を中心としたYA小説(恋愛もの=tykkääminen)、ファンタジーと細かくあります。

12月はソフィ・オクサネンの新作ツアー講演会が最終場所ポリであったので、サイン本を貰うために夫が買って自分でサインを貰った後夫にクリスマスプレゼントにしてもらうという本末転倒な?やり方をして、途中まで読んだ本をクリスマスまでお預けになってしまったのですが、めげませんよ私は! ↑これについてはまたいずれ。


ということで、今積読になっている女性の投資本をまだほったらかして、愛するポリ市立図書館にいそいそと。
本題に戻ります、ラーシュ・ケプレルの4作目と5作目です。

12月は寝る前や仕事の時間を惜しんでスウェーデン・ミステリ2冊を読んでいました。 
翌朝仕事だというのに1時頃まで読んでしまったり。子どものころから読書で止められなくて(オーソン・ウェルズの広告だったあれ、思い出すな)夜更かしし翌日が辛いというのはわかっていてもやめられない。
三つ子の魂、でございます。またはいつまでたっても学習しないとも言えます、はい。

ラーシュ・ケプレルの「ヨーナ・リンナ」シリーズは日本でもシリーズ3作まで早川書房から
邦訳がされていて『催眠』『契約』『交霊』と出ています。まだの方ぜひどうぞ。
ぐいぐいスピード感ある展開で読ませます。わき道エピソードは放置されることも多いので(これが犯人か!と思わせる伏線でしょうが、私も何度も引っかかりました・・・)
スウェーデンが舞台ですが、移民が多く、隣国フィンランドから1960年代前後に移住した人口も多い社会の背景を反映して、主人公ともいえるヨーナ・リンナ刑事はフィンランド人であるところもフィンランドのファンの心をくすぐるところで、こちらでも非常に根強い人気があるシリーズです。

日本ではシリーズものの場合、まず一番人気の作品を訳してみて先行きを判断するというところがあるでしょうし、シリーズものはやはり先細りするという事情もあるのか、4作目の『サンドマン(未)』と5作目の『ストーカー(未)』は邦訳されていないようです。

実は私は三作目『交霊』ですこーしだけ訳のお手伝いもさせていただきました。あとがきで名前を書いていただいてる事に気づいた・・・
ヨーナ・リンナが時々作中でフィンランド語のセリフをつぶやくのでスウェーデン語だけでは訳者さんも困ることでしょう。これがね、、フィンランドの小説でもスウェーデン語系の人物が出てくると独り言とか子ども時代の童謡だとか出てくるんですよね。学校で習って基礎は覚えている人が多いのでフィンランド人も読むには困らないでしょうが私のような基礎がゼロの者にとっては結構辛いものがあります(笑)それで秋に長男と一緒に始めようとやってみたものの案の定忙しくて途中で脱落・・・超基礎で止まってます。

さて、作者ラーシュ・ケプレルは処女作ではペンネーム以外秘密というセンセーショナルなデビューで非常にうまいやり方だなと思ったのですが、のちに新聞社が素性を突き止め、(彼らの自宅に暗い中懐中電灯で侵入し奥さんが怖がって旦那さんがチャイムでドアをあけたところ、アフトンブラーデット紙記者2名が彼らの著作と懐中電灯を掲げ「もうわかってるんですよ、白状してください!」と詰め寄ったとか。
二人とも文学界で活躍する作家ですが、お互いの文学活動を邪魔しないよう共同執筆の時はこの筆名にしたりと言った事があったようです。

邦訳もでている3作は私も日本語で読んだのですが、今回やっと手を付けたのはフィンランド語版の4作目と5作目でした。だって日本語待てど暮らせどでないんだもん!

訳者は1,2作目はヘレンハルメ美穂さん、3作目はミレニアムでもヘレンハルメさんと共訳した岩澤雅利さんと新作『ミレニアム4』でヘレンハルメさんと共訳している羽根由(ゆかり)さん。Twitterなどレビュー感想を見ると、ヘレンハルメさんを言及される方が多いですが(知名度と作品数では確かに!)岩澤さんと羽根さんともにこれからもどんどん作品が増えていく盤石な実力を備えた方々だと思いますので今後を楽しみにしています。
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『サンドマン』はヨーナの隠された秘密がいよいよ明らかになり、宿命の敵ともいえる相手との対決のストーリーとなります。このためにずっと孤独に耐えてきたヨーナ。可哀想すぎる・・・
一応、もし邦訳がでる場合を考えてこれ以上は書けませんが…。
登場人物の一人である、ベストセラー作家で被害者のところに日本から編集者がアニメ化の版権の事で訪ねてくる場面があったりしてちらっと笑わせてもらいました。
人気作家は執筆中だろうがツアーとか書籍見本市での講演だとか年間通じてコラムや記事も依頼されたり海外版権のやり取りをしたり大変ですよね。エージェントが全部決定できるわけじゃないですしね。翻訳者からも問い合わせがあるケースも多いですし。

おなじみ登場人物サーガ・バウエル(スウェーデンの有名な画家、ヨン・バウエルの子孫でもあり彼が描く妖精そのものの金髪ではかなげな美貌。それと裏腹にボクシングや格闘技で強い矛盾性が魅力の登場人物で結構重要な役どころ)らも健在です。
終わりが続編を予感させる唐突な終わり方で、2013年の作品だったので、続編5作目もフィンランド語版が2015年春に出ていて助かりました。
図書館さまさまです。
『サンドマン』は移動図書館から見つけて、『ストーカー』はポリ市立図書館支部から見つけました。
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『ストーカー』
こちらでも先に出るのはハードカバーなので、翌年にペーパーバックが出ます。
ちなみに、普通は既にハードカバー版があるなら同じものを使いますが、フィンランド語版は
来年同じ出版社から、違う訳者で再度ペーパーバックが出るようです。
なぜだ!?気になる!確かに初版だから、外国人の私が読んでも気づく綴りミスなどは何か所もありましたが、ストーリーの流れ自体の訳は悪くないと思ったのですが、、こればかりは原作を読める実力が無いと比較はできません。または英語版と比べるとか。
ただ、フィンランドではスウェーデン語からの翻訳者はわんさかいるので、一作目から全て違う人がフィンランド語版をやっているという理由はあるかも。版元が付き合いのある”空いている人”が依頼を受けるとか。

実物は、600ページ以上でハードカバーなので、凶器になる重さ。これが眠くなって顔の上に落ちたら怪我します。
寝っ転がって読むには重い・・・というわけでソファに座って&うつ伏せでなんとか一週間で読み切りました。
連続夜更かしでクマが、うう。

内容はなんと一作目の「催眠」で出てきたエリック・マリア・バルクが重要な役どころで再登場ですよ!
点から始まったストーリーが、点と点をつなぎ合わせて弧を描いて、円が閉じていく形を作っていくような印象を受けます。
そしてヨーナがまだ登場するわけですが(待ってました!)、最初のころのような茶目っ気は4,5作ではもう失われていて「僕の言った通りでしょ」というセリフはゼロ。
これは悲しいですね。ハリーポッターでもストーリーが進むにつれて暗~くなってくのが悲しかったけど(いや比べるところか?)。
そしてこれも終わりが・・・続編があるようなないような。

さて、作者アンドリル夫妻の講演を生で聞きたかったのですが、春、ストックマンでのチャンスは逃しました、でもその後ネットテレビで生放送があったので中継を見たのですが、とても面白いコメントをいくつか言っていました。
そのうちの一つは、「ミステリーのほうが純文学より難しい。なぜか?必ず答えを読者に提供しなくてはならないから。純文学はどんな終わり方をしようと、ストーリーが宙ぶらりんで終わろうと構わないという点で簡単だと思う」これは「なるほどね」と膝を打つコメントで、印象深かったです。
それまで私は純文学の方が高尚なもののように感じていましたが、ストーリーを書くにあたって難しさという意味では探偵ものやミステリの方がつじつまを合わせる点で一貫性も求められるわけですね。

北欧ノワール、現代ものはなんにしても殺人の方法もえげつないです、はい。

1960年代のフィンランド・ミステリを読んだ時(『そして誰もいなくなった』に似ているという評判の)“死因がナイフで背中を一突き”というなんとも今からすると牧歌的ですね、とミステリのハードコアファンの方からのコメントを頂きましたが、まさにその通り。今頃の皮をはいで逆さづりだとか、内臓全部えぐり出すとか燃やしちゃうとか、血液抜いちゃうとか、殺人に残虐な手口を使わなくてはならないというのは、そうでないと読者の関心を惹けない、トリックやストーリーでの作家の実力・想像力が乏しいからではないかとこれは別のスウェーデンミステリ作家が言った言葉なのですが、同業者からの批判もこういったところに出てきています。
(彼の作品ではどういう殺し方をしているか、読んでないので分からないのですが。(笑))

ともあれ、ヨーナ・リンナのファンとしては途中ドラッグ中毒だの売春婦だののミステリにつきもののくだりはもう色んな作家のシーンで出てくるので食傷気味ではありますが、なんとかへまをしでかしたりするお約束登場人物や心理描写の妙で最後まで途切れず読み進めてしまいました。
(ストーリーでつかみどころがないと、読み始めてもやめてしまうもので)


確か次回作はまだ出ていないというか、ケプレル最新作“Playground(プレイグラウンド、とするか「遊び場」とするか迷う所)”はフィンランド語版が来年2月に出ますが、予告を読むと全く違うストーリーで死後の世界も扱うテーマらしいので、ヨーナの物語は取りあえず一休みなのかもしれません。スウェーデン語版読んだ人教えてください!

ヨーナの続きが読みたい・・・ただアンドリル夫妻は、『催眠』(Lasse Hallström監督は有名ですよね)の映画化で大失敗したという苦い経験を持っているので、『契約』の映画製作にもストップをかけたよう。「催眠の方も、脚本がダメすぎた」と一刀両断です。もう任せてられないという事で、近い将来始まる予定の一作ずつを1クールのドラマにしあげる方では脚本にもがっちりかかわる予定だそう。彼ら執筆の時間無さそうだなぁ、、5作分5クールやるとなると。

しばらく「待ち人来たらず」の心持ちとなりそうです。
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by wa-connection | 2015-12-26 05:44 | books
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※加筆修正しました。(9/4)
(注:古い作品とはいえ、少々ネタバレありです!これから読みたい人はこの記事は飛ばしてください。)
読み始めたのはフィンランド語検定試験を受けた4月末なので数冊並行と途中で結構時間がかかりました。
1/3ぐらいまでまぁ普通に読んで主人公ホールデンが学校ドロップアウト後のNYのホテルで飲んだくれ、エレベーターボーイにボコボコにされたあたりで、うだうだの中二病ぶりが嫌になり、二ヶ月以上手につかなかったりしまして、8月後半また波に乗って寝る前20ページずつぐらい読んで残り150ページをヘルシンキに行くバス車内で終わりました。

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(上は最後の方でホールデンが妹に将来何になりたいのか聞かれてBurnsの一節を引用するも妹に間違いを指摘されるという・・まぁ「誰か(チビ助が)がライ麦畑から飛び出して来たらそいつが落ちないようしっかりつかまえる奴になりたいんだよ」という場面です。

大学に入った頃か高校の頃か、もう覚えていませんが邦訳で一度読んでいるのですが、もう結末は覚えておらず・・・。
ただ、フィンランド語の翻訳をやったペンッティ・サーリコスキ(詩人、作家、あれこれグダグダした御人)の文体が有名なのでこの際再読はフィンランド語でと思ったのがきっかけでした。

確かにぐんぐんひき込まれるリズムがあって、私でも一気に一晩30ページ、など何度か読めたのはこの訳し方が大きいと思います。中二病主人公じゃなきゃおばたんもっと一気読みしてたかもしれません。それにしても時間がかかりすぎです。もっとすらすら読めるようにならないとやっていけませんよ→自分に言い聞かせる。


以前も書きましたが、とくにこの『ライ麦畑~』での翻訳は「サーリコスキ現象」と呼ばれたりしたようで、一字一句正確な翻訳か、それともある程度文ごとの訳し方には幅を持たせて全体の流れを尊重すべきか、というのは翻訳家でも意見の分かれる所のようですが、こちらはまさにフィンランドの国語の先生が「やっと学生が喜んで読む本が出た!」と狂喜し、逆に英語の先生は「原文と意味が違う、ここまで変えるなんてけしからん!」とリアクションが逆だったという物議を醸した作品でタイプでいうなら雰囲気重視、ですね。批評家の中にはこの版を「カヴァー」と捉える向きも多いようですし、確かにサーリコスキはお金に困って適当に訳したエッセイなどもあったり、後に訳した作品は自分でも後にこりゃひどいと思ったらしく版元に自ら訳したその作品の販売を禁じていたほどです。ただ邦訳(野崎版)の一部がネットにも出ているのでフィンランド語版と読み比べてみました。
まず原文を読んだ後にネット上にある邦訳版を再読。
そうしたらですね、違和感はほとんど感じず「そうそう、こういう風に書いてあったね」、と思ったのです。
流れを重視し、語順や一文ずつの訳に細かくこだわらない代わりに全体がまとまっているということだと納得しました。(ホールデンがスペンサー先生の自宅を訪ねる場面など)

試しにこの『ライ麦〜』を思春期の長男に一部読ませたら普段使ったら怒られる言葉がバンバン出てくる高校生男児の話なので数ページ、ゲラゲラ笑いながら読んでいましたよ。

私はといえばいやもう読みながら、封印していた恥ずかしい高校時代の葛藤というかどうにもならない情けなさとか周りの可愛い子達がちやほやされるのに自分の外見恨んだりとか(努力もせずに)あれこれ思い出しましたよ。
で、また封印しました。でないと恥ずかし過ぎてだめです。それにつけても生き恥さらしながらの人生なのに。


ちなみにフィンランドの文芸翻訳家のラジオ対談を以前聞いていたら、翻訳家とは芸術家といえるのか?という議論がありました。
そこで、ゲストに出ていた文芸翻訳家は実際に創造するのは原作者である。訳者はただ訳すだけだ、という人もいるけれど、クラッシック音楽でたとえるならば原作者が作曲家、翻訳者はオーケストラ(演奏者)としてその解釈、技量で観客(読者)を魅了するべき芸術家である、という意見を述べていてすとんと腑に落ちた覚えがあります。ああそうか、やはりこのプロセスは産みの苦しみでいいんだ、と。

シベリウスが本の原作者、LahtiやRSOのオーケストラが訳者と言い換えるとすると、分かりやすいでしょうか。オケによって結果がそれぞれ異なり、味とも言える訳なんですね。

私はまだ一冊しか共訳で仕事はしていませんが、現在もフィンランドの書籍をリーディングなどで日本に提案中です。またいいタイミング、出会いでこれは!と思った作品が日本語に訳されるといいなと願っています。

今後もちょくちょくフィンランド語の本を紹介していきますのでご興味がおありの出版社ご担当の方は弊社
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またはその上にあるメールアドレスよりご連絡ください。



ちなみに次はこれが待ってまして、これも1/3少々読んであります。
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"Nainen ja rikastumisen taito"(talentum 2015) Emilia Kullas, Ninni Myllyoja『女がリッチになる方法』
直訳なら「女とリッチになる方法」、ですがなんとなく女と一緒にという風に読み取れてしまうのですが、並列ですからね。
これもね、面白いです。意識改革ですかね、つい優等生で育っていい子にしてきて社会に出て男性がやるようにしれっと当然の給与額を要求できず言われた額を有難く頂いて満足してしまう女性たち。経済誌の女性記者二名が執筆した、今年春の話題作です。
女性の経済的自立の重要性を説いていますが、じゃあどうやるか?が順を追って書かれています。
どうもこの手の本は日本に無いように思います。読み終わってからまた書きますね。





あとお借りした又吉さんの『火花』、石川達三『蒼茫』もまだ待ってます。。。そして邦訳が出ると思われるトンミ・キンヌネンの『四ツ辻(仮)”Neljäntienristeys”』も待ってます。9月はかなり忙しいので厳しいですが、時間は作るものと言いますよね。

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by wa-connection | 2015-09-04 05:15 | books
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なんとバケツで本を借りてもらう、というアイデアを目にしました。


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私の大好きな場所に、図書館があるのですが、3月半ばから画像のような張り紙が入り口にありました。

先着500名にバケツ一杯の本貸し出しで一人当たりバケツ一つ差し上げます!
エイプリルフールじゃありませんよ!」

実はフィンランド人、ただで何かがもらえるの大好き人間です。
選挙運動のソーセージでも、グッズでも、たとえ支持政党と違おうが大多数の人が並びます。
デパートやスーパー開店キャンペーンだとケーキ&コーヒー千名様!といった広告が出ますが、そりゃもう長蛇の列です。

バケツもホームセンターなどの定番「客寄せ」品の一つなのですが、図書館もこの手を使ったわけです。

本をわざわざ手に取って読む、という人が減っているのは世界的な現象のようです。何かを読んでるとはいってもスマホやタブレットを手にぱぱっと目に入るSNSのアップデートチェックしたり、ニュースの細切れ読みをしている人が増えました。
そういう私もニュースは忙しい時タイトルと数行流し読みしたり、Twitterで多いときは日に数十回どうでもいいことを呟いているわけですが。

つまり現代人は文章自体は読んでいても、断片を隙間時間に読むということが増えているようで、まとまった長い文章に接する事はやはり減っているようです。
というわけで、図書館もなんとか歯止めをかけたいと常に考えているのか、こういう取り組みをしているんですね。

Instagram上で見つけたものでは、#hotdudesreading (イケメン読書中 hot dudes reading)というタグでしょうか。
NYの通勤電車内でかっこいい男性が本を読んでるのを激写してネット上に投稿したことから始まったもの。
あれ激写後に掲載許可は撮ってるのか気になるところですが、私もたまに検索して眼福とさせていただいておりますです、はい。


バケツ一杯の本(やCD、DVDなどもOK)を借りてバケツを一つ差し上げますと。
顔なじみの図書館員さんに聞いたら、「本当にエイプリルフールじゃないわよ(笑)もうバケツ500個買ってあるんだから」と太鼓判。

ワクワクしながら当日を迎えました。

おお、本当にある!
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当日、入るとバケツが積み上げられていました。
一つもらって、前から気になっていた本を突っ込んでいく。
全部入らなかったので、まぁどうせいつでも借りられるし、と断念。
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それに「積ん読」の本も3冊あるんじゃなかったっけ、、
そして4月11日は語学試験があるんじゃなかたっけ、、と頭の片隅で思いながら手は止まらないんです。

昔、本屋さんになるの夢でした、好きなだけ本が読めると思って。
学生時代は、毎日立ち読みに行っていた本屋で、「どうせ毎日来るなら店番しながら読んだら?」とお声かかりまして、アルバイトに。レジで読んでる間は幸せなバイトでしたが、書店員ってすごい体力勝負で手がしょっちゅう紙で切り傷だらけになるのが分かりました。(作業手袋必須)売れなかった雑誌は週刊誌も月刊誌も返却しますしね。付録も挟んだり雑用は多いです。
腰痛めそうになりましたっけ。

でもまだ読んでいない名作、名著は星の数ほど。

脱線しましたが、図書館も入るたびに今日はどんな本に出合えるかとかいろんなコーナー歩き回って時間が経ってしまいますし、図書館員さんたちも本当に物知りで、雑談も楽しいです。

去年、本の翻訳をしているときは、イヤフォンして音楽聴きながらほぼ毎日カフェか図書館にこもってましたっけ。
参考資料もすぐ探せるし、なければ遠隔地図書館からも貸し出ししてもらえるし、図書館様様です。
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この日借りたのは以下の通り。

J.D.Salinger, Pentti Saarikoski訳 "Sieppari ruispellossa" 「ライ麦畑でつかまえて」
Pekka Tarkka "Pentti Saarikoski vuodet 1937-1963" サーリコスキ評伝
Granta (文芸誌)
Leena Lehtolainen "Maria Kallio-Extra" 「マリア・カッリオ20周年記念、ライトに、シリアスに」
Seppo Vänskä 「驚きに満ちた日本」 ←これは夫に見せるためだけに借りました。こういう日本関係の書籍、全部チェックしてますから。
Esko Rahikainen ”Aleksis Kivi” 『森の兄弟』を書いたフィンランド文豪の評伝(薄め)

今、サリンジャーから読んでます。
これ日本でも野崎訳が有名ですね、そして村上春樹訳が同じ白水社から出ました。
新旧比較している人も多いと聞きます。
私は10代の頃野崎版を読んだのですが、ちょっと記憶があやふやになってます。

この作品はフィンランドでも翻訳がいくつか版があってですね、サーリコスキ版は非常に物議をかもしたものなのです。彼は詩人、作家で60年代活躍してるんですけど、英語はそれほど達者じゃないんですが、翻訳を引き受けたんですね。
そして独特の文体でこの若者文化の小説を訳しました。

英語教師は「あんなの翻訳とは認められない!」と断罪し、
国語教師は、「素晴らしい!やっと(本を読まない)子供たちが喜んで読む作品が出た!」と喜んだとか。

翻訳には一字一句正確に訳す場合と、
訳す言語での流れ(フロー)をより大切にし、原文からは単語の選び方、文の順序が変わっても全体像をまとめあげ完成させるという風に方法が分かれると思います。より訳者の味が出るといえばいいでしょうか。

翻訳者のカラーを出すということに関しては、翻訳家の西崎憲さんがフェローアカデミーでのインタビューに熱く語っておいでです。

ノン・フィクションではより前者がいいでしょうし、純文学では意見は分かれるところではないでしょうか。

サーリコスキの『ライ麦畑~』はもうどうしようもなく後者ですね。

テストが終わったので無事に読書時間が戻ってきまして、今2章を終わって主人公が名門Pencey校を退学になり、スペンサー先生にお説教されて歴史のテストでエジプト人についての回答をコテンパンに批評されて腐って別れを告げてきたところまで読んでるんですけど、確かに非常に読みやすいです。
テンポが良くて疲れない。
60年代のフィンランド人若者たちのスラングってこんなのかー、と(いかにもボキャ貧な感じで)思いながら。

彼はほかに訳書があるのですが、自分でも後でまずいなと思ったらしく、生前は出版社側に再版をしてくれるなと頼んだものもあったよう。

読了したらまた別のフィンランド語訳者のものと少し比較対象してみようと考えています。
野崎訳と村上訳もネット上のインタビューで一部読めますね。

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さて、先日ヘルシンキを歩いていて見つけたこれ。
ここに一時期住んでいたんだなぁ。


さて、アレクシス・キヴィについてはまた後日たっぷりと。

家に帰ってバケツをよく見たら "Porin kirjasto Täynnä aarteita"(宝物で溢れるポリ市立図書館)あーいい訳が思いつかない。
お宝いっぱい (ワンピースか!?)
本の宝庫 (本とは書いてない。補ってしまう)
あ〜だめです。

あなたの宝物になるような本はどれですか?見つけに来て下さいね、といわれているような気がします。


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by wa-connection | 2015-04-15 17:38 | books
※長文です。
これは今年の春から訳し始めたネタでやっと隙間時間が取れたので仕上げました。書籍、翻訳関連ネタが続いておりますが、きっと本好きには興味が有るお話だと思いますので!
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ーーー
—本は生き延び、進化する。しかし書籍は本棚から飛び出して余暇時間市場からそのポジションを確保する必要がある—

まずは悪いニュース:フィンランド人の読書率と書籍販売、そして新作出版部数は引き続き落ち込みを見せている。
次に良いニュース:フィンランド文学の翻訳化の版権売上、つまり文学作品輸出額は2011−2012年の間に126万ユーロから198万ユーロへ60%増となった。(注:円換算で182億円から286億円、11月20日レートによる。
ちなみに2013年も更に増加している)

フィンランド文学界でどこかで成長可能性を探すのであれば、国境を越えて行くしかない。2008年から2009年の間に、フィンランド文学において販売売上は291万ユーロから263万ユーロに落ち込んでいる。(4億1900万円から3億8千万円、同レート)昔ながらの書籍出版の方でいえば落ち込み率は大きく、逆にデジタル出版物や書籍の分野では逆に売上を年々伸ばしている。

出版界の専門家によると、前途多難であるとはいえ、書籍は死に絶えはしないという。課題は人々の余暇の時間の奪い合い、読書自体の減少、読解力の弱り、そしてデジタル化にともなう様々な試行錯誤中のビジネスモデルといったところだ。

「人口は増えません。ですから私たちは視線を国外に向けなくてはらなないのです。また作家にとっても視線を世界に向ける事が重要でしょう。将来はより国外へ出て行く形が増えると考えています。」大手出版社WSOY社のティモ・ユルクネンは言う。

これは容易な事ではない。
「外国にはフィンランド語を読める編集者を抱えた出版社はありません。ですからフィンランド書籍の輸出にはさらにセールス・トークが必要ですし、先方もリスクを背負って版権を購入する訳です。」とフィンランド文学情報センターのトップであるイリス・シュワンクは考える。

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書籍見本市はチャンス

フィンランド文学はここ最近注目を浴びている。これは版権売上額から見ても明らかだ。これは一朝一夕になしとげたことではなく長い間の準備期間が実を結んでいると言っていいだろう。定期的に海外の出版社をフィンランドに招き、翻訳者を教育してきたということだ。ソフィ・オクサネンのようなスター作家がより注目を集める結果にもなっている。シュワンクによると、70−80年代に比べて、フィンランド文学の内容も変容を遂げている。「以前は海外に受けにくいテーマが多かったと言えるでしょう。今では物語の舞台やテーマが国際的になり、フィンランドらしさを求められつつも、これまでよりも親しみやすさを増しているのではないでしょうか。」また、フィンランドは成功している文学作品に加えて、レパートリーが広い事、児童文学に関しては層が厚いことも特徴だという。トーベ・ヤンソンはフィンランド人作家でもっとも広く翻訳されている作家の一人であるし、ヤング・アダルト文学を書くサッラ・シムッカの版権も37カ国に売れている。(注:2014年初めの時点)「私たちの場合はスウェーデンのようなミステリー・ブームは来ないでしょうね。逆に言えば、多様性が私たちの武器なのです。」10月のフランクフルト書籍見本市は世界でもっとも注目される出版界のイベントで、フィンランドは今回テーマ国として満を持して参加する。メッセには30万人が足を運び、そのうち17万5千人が出版業界人だ。フィンランドは2300平米のパビリヨンを用意し、期間中1万人の来場者を目指す。

テーマ国プロジェクトの予算は5年間で4百万ユーロ(5億9千万円)、そのうち半分が公的支援である。目標は翻訳版権契約数のレベルを常に活発な状態にまで引き上げる事だ。これは実はドイツ語書籍市場ではすでに成功し始めている。

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電子書籍は後発

2012年には新たな電子書籍は678冊発売された。一方紙の書籍の出版数は4355冊である。2008年から考えて電子書籍数は5倍になったとはいえ、道はまだ険しい。
オタヴァ社の出版上層部ミンナ・カストレンはフィンランドではなかなか質の良い幅広い電子書籍が売られていると考える。オタヴァの目指す所は、紙の本はすべて電子書籍でも提供できるようにする、という事だ。これは消費者への機会提供というよりは、読み手に電子書籍に慣れてもらうという方が大きい。フィンランド人にとって本はまだ神聖なものなのである。「私たちは消費者に電子書籍を読んでもらい、購入してもらえる様に投資をしなくてはなりません。」とカストレンは言う。

「フィンランドは非常に伝統を重んじる国です。消費者と版元は電子出版というものに対してかなり反応が遅かった。私たちは先駆者というよりはデジタル・コンテンツの消費においては逆の状態でしょう。」前述のティモ・ユルクネンも言う。

電子書籍の定着には紙の書籍よりも高い付加価値税とともに、販売経路が障害ともなっている。電子書籍を入手する為のチャネルはまだまだ発展途上だ。

カストレンはそろそろ電子書籍の出版、販売が軌道に乗っていなくてはならない頃だと警鐘を鳴らすが、価格もその実現を阻む理由の一つである。

「電子書籍出版なら費用はかからないだろういう考えがつきものですが、それは間違いです。電子書籍だからといって本が無料になる訳では有りません。」

フィンランドの場合、電子書籍の価格をあげるのは、24%の付加価値税だ。印刷書籍の場合は10%である。例えば2013年一番のセールスを誇ったライラ・ヒルヴィサーリの価格は2月の時点で印刷書籍で23ユーロ、電子書籍で25ユーロである。

書籍の形式が様々に

書籍の世界では、もっとも大きな試練と考えられているのは読書時間の減少である。これはフィンランドだけではなく世界中で起こっている現象だ。成長戦略として海外に目を向けたとしても、人々の生活の一部として読書を残したいのであれば、業界内部で変革が必要だ。

「読書に当たり前のように興味を持ってもらえた時代とは違います。今度は興味を生み出さなくてはなりません。本好き、文学の友、と言った人々は減りつつあります。一方では現在、これまで以上に文字に触れる機会自体は増えているのです。ただ、どうやって読むかという形が異なるという事を認識しなくては。」とミンナ・カストレンは言う。

「人々は短い文章や細切れのコンテンツをあちこちで空き時間に読んでいます。」では何が、本やより長文の集中力を要する読み物の可能性と形式なのだろうか?

ティモ・ユルクネンによれば、それは本がこの競争の中で他のコンテンツよりすぐれた魅力を備えてこそ勝ち目があるという。
「そしてその内容は、他の競争相手(コンテンツ)と同じプラットフォームに入っていなくてはなりません。この競争は、本がほかの余暇のレクリエーションよりも優れているという態度のままでいては到底勝つ事はできません。」
カストレン自身はこの競争により、書籍や文学のレベルがより引き上げられると考えられている。「今では誰でも文章を公開する事ができます。ただ版元は文章に真の力強さと良さがなければ食いつきません。」

デジタル化は書籍にも可能性を与えると言っていい。ユルクネンは、音楽ビジネスで広く広まったSpotifyのようなサービスが登場するのも遠い事ではないという。面白そうな本についてはソーシャルメディアですぐに情報が共有されるものだ。更に様々なアプリケーションも書籍とって新たな可能性と言える。
「児童書ではこうしたアプリはより進んでいます」と文学情報センターのシュワンクは言う。
「書籍の中身を様々なアプリケーションやその他の方法でより豊かにする事もできるでしょう。画像をアップしたり、音声も追加したりして。」ミンナ・カストレンは、多様性は作り手から始まるという。作家や挿絵画家がすでに完成したアイディアを持ち込んできます。彼らはどうやったらそのアイディアを実現できるか、例えばゲーム業界のことも知っているのです。今後さまざまなハイブリッド型コンテンツが生まれるでしょう。たとえば文章と動く挿絵なども考えられます。

カストレンはそれでも、文章による力を信じている。
「たとえどんな形になろうとも、本の核となるものは残るでしょう。」


以上です。
本当はフランクフルトのブックフェア以前に訳したかったんですけれどね。(涙)
したかったんですけどね・・・

まぁいいや。(おい)
文章の公開が簡単だというのはブログしかりソーシャルメディアしかり。
誰でも無料でできてしまいますからね。
有象無象がものすごいことになってるわけです。すみません、このブログもその一つです。みなさんがこれを読む事で貴重な読書時間がぁ〜〜!!(罪悪感)

では私は2ヶ月積ん読になっていた『森の兄弟』を今週からまた再開してますが、毎晩見開き読んで睡眠導入剤の役目を果たしてくれています。大岩の上で荒れ狂う牛達に囲まれている七兄弟、伝説やら喧嘩やら長かったんですがやっと次の行動に移った所です。
今日も見開きで寝てしまうのだろうか、、、4日間で8頁。夏休みは毎晩20〜30頁ペースで一週間ちょっとで170頁までいったのですが。年内に読み切れるか、挑戦です。
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by wa-connection | 2014-11-21 05:36 | books
うちで二紙新聞を取っているんですが、この地方のサタクンナン・カンサ紙に定期的に掲載される言語関連のシリーズ記事「言葉のこと」があって、文法的なトピックだの結構面白い内容で勉強になります。
今回は翻訳についての記事があったのでトピックとしては前回から続きますが、載せてみます。
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「トーベ・ヤンソンの文章」

フィンランド語版での文:
"Eräänä harmaana aamuna ensilumi laskeutui Muumilaaksoon. Se hipisi maahan hiljaa ja tiehensä, ja muutamassa tunnissa kaikki oli valkoisena." (Taikurin hattu 1948)『楽しいムーミン一家』の出だしである。
これはスウェーデン語の原文からフィンランド語に翻訳されたものだ。
(意訳:ある はいいろの朝のことです。はつゆきがムーミン谷をおおいました。雪はしずかにじめんやみちにかろくふれて、すうじかんごにはすべてがまっ白になっていました。)

すばらしい作家は文章も同様にすばらしい、と言われている。ではトーベ・ヤンソンの文章はどうだろう。たとえば前述の『楽しいムーミン一家』はどのように翻訳されているのだろうか。

作家ユハ・セッパラは、良い文章とは「ゆったりとしていながら、他の書き方を許さない。自由でいながら、完成している。形成的でありながら複雑ではない。曲がりくねっておらず、まっすぐに多方向に向かう。 良い文章はそれ自体が良い文章だと触れて回る事はしない。良い文章は膨張せず、押し付けがましくもない」

と言っている。ムーミン童話は文章にあふれている。これらの文章は着膨れした感じはいっさいせず、押し付けがましくもない。余裕が有り、これ以外の書き方はあり得ないと思わせ、自由でいて完成している。形成的ではあるがややこしくはない。

トーベ・ヤンソンの言葉で特徴的なのは主文の多用だろう。表現方法は詩的で読者に同化する余地を与えてくれる。ヤンソンは原因—結果で導かれる副文を避けている(英語でいうところの、that, because, ifで始まるもの)。

『ムーミン谷の夏祭り』を見てみよう。フィンランド語では”Pannukaku kuivuu ja kukat kuihtuvat ja kello käy, eikä ketään tule.” (Pannkakan torkar och blommorna vissnar och klockan går och ingen kommer.)手元に邦訳がないのでほんとうにざっくりと訳しますが(童話の訳はどの方の翻訳もさすがとうなる練られたすばらしいものなので下を読むと邦訳で該当箇所が見つけられないかもしれません、うう、、、)

「パンケーキはかんそうし、花もしおれ、時計だけがすすむ。そしてだれもきやしない。」矢継ぎ早に続く主文は計算されフィリフヨンカの悲しいため息と合致している。そこでは夏至祭の夜に人を待ち続けることの終わりのないやるせなさが詩のように描かれている。

ムーミン作品が発表された当時、当時の児童文学の要件を満たしていないと批判された。教育的な内容でなかったからだ。

ムーミンの世界は当時馴染んでいたもじゃもじゃペーターの世界から程遠かったのだ。ヤンソンは読者に(子どもにも、だ)自由を与えた。読者を信頼したのである。

ムーミンの物語は43カ国語に翻訳されている。初めて英訳されたのは『たのしいムーミン一家(原題からの直訳:魔法使いの帽子)』で”Finn Family Moomintroll” とされた。

翻訳者は物語を当時慣れ親しまれた児童文学の方向へと誘導している。この翻訳者は言葉を切り捨て、読者を思惑通りの方向へ誘い込み、並列された主文を副文へと変換してしまっている。翻訳からは、児童文学を見下す態度が見え隠れする。

フィンランド語翻訳の例ではオリジナルの雰囲気を極力尊重している。
”Nipsu puri pelkästä kiiihtymyksestä hemulia peukaloon. –Pidä varasi, hemuli sanoi vihaisena. Sinä purit minua peukaloon! –Voi anteeksi, sanoi Nipsu. Minä luulin, että se on omani.”
(意訳:スニフはこうふんしてヘムレンのおやゆびにかみつきました。 気をつけろ!ヘムレンはおこっていいました。こっちの親指にかみついたんだぞ! ああごめんよ。スニフはあやまりました。ぼくのだとおもったんだ。)

英訳では以下のようになっている。

”(…)in his excitement, Sniff bit the Hemulen´s thumb thinking it was his own.” これをフィンランド語にすると以下のようになる。
”Kiihtymyksissään Nipsu puri Hemulia peukaloon luullen sitä omakseen.” 
マルヤ・ヘイッキネン 
(筆者は英語とフランス語修士、翻訳家)



以上です。いやぁ、プロのチェックってほんっとうに恐ろしいですね。さいなら、さいなら、、、(違うだろう)

特に英語の場合はそういう目にさらされる機会が多そうです。
ただここまで読み込むと文同士の関係やぎりぎりまでそぎおとされて美しい原文がますますいとおしく思えます。上の記事を読んで、本文の美しさを楽しみたいのであれば、英訳ではなく邦訳がやはりいいのだろうなと改めて感じました。フィンランド語訳としかくらべていないのですが、どれもよく練られて一度訳者の方が消化したあとご自分の言葉で生み出したものであることがわかります。直訳のような固いものではなく、流れがあり、全体の雰囲気がしっかりと伝わってくるのです。私の意訳は邦訳が手元に無いため適当であまりにしょぼいものですのであくまで参考程度になさって下さい。

 原文が愛おしいとはいっても、私は大人向けに書かれたヤンソン小説の方が実は好きなのですが。『彫刻家の娘』の中の短編もいくつかとても好きなものがあります。「パーティー」など。

翻訳は意味が伝わればいい、こんなものじゃないか、と思う人もいれば語順原文に忠実に、と思われる方もいらっしゃるかと思います。

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by wa-connection | 2014-11-20 03:15 | books
追記:英語のからまず始めましたが面白い・・^_^。
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在フィンランドのアメリカ人推理小説作家、ジム・トンプソン(邦訳ではジェームス・トンプソン)のオリジナルとフィンランド語訳を比較してみることに。仕事の合間に読むので数日掛かると思いますが。
この二作目(凍氷)と一作目(極夜)が邦訳されてますね。
一作目は昨年、日本人の方からお借りして日本語で読むことができました。
関係ないですが、多分名前をジムにしているのは格闘家やレーサーでジェームス・トンプソンという人物(同姓同名)がいるからだな。。。
カリ・ヴァーラシリーズはまだ続きます。

しかし同じ話でもタイトルもカバーデザインも違いますな。
オリジナル「ルシファーの涙」
フィンランド語訳「冷たい死」
邦訳「凍氷」
・・・うーむ。
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by wa-connection | 2014-04-05 01:22 | books

読み始めた本

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トーベ・ヤンソン生誕90周年のとき出たトーベの親しい人たち、仕事で深く関わった人たちが寄稿したもの。
ヘレン・スヴェンソン編著で原語はスウェーデン語。
私が読んでるのはもちろんフィンランド語に訳されたバージョンです。(汗)

トゥーリッキ・ピェティラ、ヴィヴェカ・バンドレル、ソフィア・ヤンソン、ボウェル・ウェスティン(トーベ・ヤンソンの評伝と言えば!の500ページに及ぶ大作著者)、などなどそして冨原真弓さん、安達まみさんも寄稿されてます。(英語で寄稿し、スウェーデン語に訳されている)
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今まで読んで重複する部分もたくさんあるけどトーベのお母さん、シグネが羊皮紙にコテージがある島の地図を描いている場面を撮った写真など貴重だなぁ!
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by wa-connection | 2013-11-29 04:52 | books

読了 『舟を編む』

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ポリの若いお友だちに夏に借りたままだったのですが次男の柔道の試合の合間に一気に読みました。
言葉に対する愛情と執念、辞書作りに人生を捧げた人たちの関わりにも涙が出ました。

私には覚悟がまったく足りていなかったのを反省し、できる限りの部分で追求したいと思います。
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by wa-connection | 2013-11-17 03:55 | books
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トーヴェ・ヤンソンの評伝でござる。300ページで作品もたくさん掲載されているので楽しい。

仕事の隙間時間に読んでいます。

この自画像は一旦自信を無くしたあとトーヴェがまた描く気を取り戻し素敵に仕上げた一枚。
魅力的に描かれている。
自信が有る無しでまったく変わりますね。。。

しかしスウェーデン人研究者ボウエル・ウェスティンの出した数年前の評伝は600ページあるそうだが何kgあるんだ、、寝転んでは読めないでしょうな。これでもかなり重くて無理だもの。

本書は34€前後の価格で全国で販売されている模様。発売日は39€でしたが少し下がりました。
それでもちょっと買えないと思ったので図書館で順番待ちしたのでした。

フィンランドの場合、図書館利用率が非常に高いのですが(おそらく人口の少ない国で出版数も限られ版を重ねることも理由)よほどの人気作家でないとないので、初版の時期を逃すともうアウトです。あとで欲しいと思っても見つかりません。

それで、図書館に行くわけですが、貸し出し回数によって作家にマージンが支払われるのがいいシステムだと思います。
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by wa-connection | 2013-11-11 05:27 | books